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  晩年の陳勉承氏

  1937年11月、華北地方は陥落し、上海も厳しい状態になった。雲南―ビルマ(現ミャンマー)への国際交通路線を1年以内に開通させるため、11月2日、龍雲氏(元雲南省国民政府主席)が、国民政府の指示で行政院から200万元の交付金を支出した。
  当時、交通部の工程所に務めていた陳勉承氏は、雲南―ミャンマーへの道路建設のために働く一人であった。

  命を救ったベスト
  陳勉承氏は当時すでに40代で、土木工事を研究していた。人民政府交通部とともに南京から昆明に撤退して、雲南―ミャンマーへの道路の一部建設を任された。
  出発する前、妻は彼に小さなベストを縫ってあげた。格子模様のベストで、格子ごとに薄い金紙か、油紙で包んだ塩を入れた。「ベストを必ず着てください。困った時に役に立つかもしれないから。」と妻は言った。
  雲南―ミャンマーへの道路建設中にも、日本軍により爆撃され続けた。前線に相当し、陳氏が所在した区間では、日本軍の飛行機からの爆弾が雨のように落とされ続け、多くの人が機関銃で掃射され亡くなった。危機一髪の際、陳勉承氏はミャンマーのお寺にある泥人形の後ろに隠れ、ようやく命を守った。
  その後、ある華僑の運転手のおかげで、陳勉承氏が撤退する途中でも、妻のベストが役に立った。
  ベストにあった金紙が陳氏の旅費となった。山道はでこぼこで、車がよく横転し、
  地元の人に止められる場合もあった。物資が乏しい当時、甲状腺機能亢進症に悩まさ
  れていた山民にとっては、塩が必需品であり、彼らにとって塩は金より貴重なものであった。このとき陳氏は、ベストにある塩を取り出して山民に渡すことで脱出することができた。
  妻の知恵のおかげで、陳勉承氏は生き残ることができた。彼は工事現場から帰ってきた唯一の生存者でもあった。

  安定しない後方
  後方から戻ったあと、陳勉承氏は昆明に引っ越した。その後、陳氏は昆明空港の建設に参加し、陳納徳の「飛虎隊」を迎えた。
  当時、手足のない負傷兵が昆明でよく見られ、攻撃された知らせも次々飛び込んできた。両親が避難途中で亡くなり、妹も日本軍に強姦された。そのことを知った陳氏は日本人への憎しみが更に強くなった。目撃者よると、日本軍の爆撃で人体は散在し、皮の部分が城壁に張り付き、腹の部分が電線に引っかかった。当時、空港建設の中、昆明も攻撃されたため、みんな「飛虎隊」の到来を期待していた。

  勝利した後
  1945年戦争が終わり、陳勉承氏はようやく家族を連れ実家に戻れた。
  南京の埠頭では、家族が乗った黄色いチャーター船の前に、武装解除した日本兵が3人現れ、私達を見るとすぐ頭を下げてわきに立った。
  「戦争はもう終わった。勝利した。だから安心して。」子供たちに、陳勉承氏はこう言った。
  野原で降伏した日本人は、我らが帰郷する列車を見ると、全員土下座していた。 列車の中で、多くの人が涙ぐみながら、「ようやく勝利を遂げた。日本兵は土下座した……」という思いをかみしめた。
  解放後、陳勉承氏一家は全員で中国共産党に参加した。末娘の陳平さんは1956年に南京に来て、南京文化局に務めた。1980年代、陳平さんは南京大虐殺遺跡である「万人坑」の発掘作業に参与した。

  雲南―ミャンマー道路の建設は非常に困難であった  
  日本軍が恵通橋を爆撃した
  昆明空港の建設に参加した民衆
  南京市文化局副局長 陳平さん

  本文は陳平さんの口述によりまとめたものである。
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