彼らは当時南京にいた(1)|メンケン:南京の恐怖な光景を目撃
1937年南京の最も暗黒な時期に強い責任感を持って堅持・抗争し人間性の燦然たる輝きを示した国際義士たちがいる。異なる国の各職業から来た彼らは日本侵略者の銃口と銃剣に直面して立ち上がり、命の危険を冒して無数の南京民衆を保護した。その中で、密かにビデオで日本軍の暴行を撮影した人もいるし、こっそりと文字で日本軍の犯行を記録した人もいるし、ニュース報道を書いて世界に南京大虐殺の真相を暴露した人もいる……今日から「彼らは当時南京にいた」という人物シリーズ特集を発表して、国際義士が見た1937年の南京を語っていく。今日はその第一話の「メンケン:南京の恐怖な光景を目撃した」である。
出処:張連紅、王卫星、劉燕軍、楊夏鳴著《南京大虐殺国際安全区研究》より
4月26日、アメリカ在住の魯照寧氏が記念館に来られ収集した98件(組)の文物史料を寄贈してくれた。その中で1937年10月10日に上海で発行された『大陸』(The China Press)という英文新聞に米国パラマウント・ニュース映画会社カメラマンのアーサー・メンケンの姿が現れ、更にメンケンの1937年の映像資料を豊富にさせた。
右より四番目がメンケン
この新聞に掲載されている内容は「日本軍が南京を爆撃するのを記録した外国人カメラマン」で、彼らは南京城壁の上にカメラやビデオカメラを据えて日本軍機が南京を爆撃しているところを撮影している。右より四番目が米国パラマウント・ニュース映画会社カメラマンのア―サー・メンケンで今度の団体撮影に参加したという文字がはっきりと写真説明に書いてある。
最前線で戦闘
1937年7月7日侵華日本軍が盧溝橋事変を起こし全面的に侵華戦争を発動した。その後の半年に、日本軍は北平、天津、上海などの地区を占領し当時の国民政府の首都南京に迫ってきた。東方戦場の戦況に注目を引かれたメンケンは中国に来て、日本の侵華戦争を追跡して報道し、その焦点を南京に向けた。
12月13日南京失陥後、メンケンは南京に留まり、スティール、デディンなど他の記者と一緒にニュースの最前線で戦っていた。
南京城に滞留して直面するのは血腥い戦闘だけでなく、日本軍が都市内及び周辺地域で犯した虐殺、強盗、強姦などの反人類犯罪だった。メンケンは日本軍が米国大使館の破壊と強盗を目撃し、同行のデディンと一緒に米国大使館の台所に侵入した五人の日本兵士を追い出した。
メンケンたちは日本軍のこれらの残虐行為をできるだけ早く公開することを切実に望んでいた。しかし、当時城内の混乱状態では電報でニュース報道を送ることができないため、南京を離れて上海に行くしかなかった。
12月15日にメンケンは長江にある米国のパトロール砲艦「ワフー」号に搭乗し同行記者のスティール、デディンと一緒に南京を離れて上海に向かった。12月16日に彼はついに「ワフー」号砲艦の無線施設を通じて自分のニュース報道をAP通信社に送ることができた。
世界に南京大虐殺の真相を暴露
米国時間の12月17日に『シカゴ・ディリー・トリビューン』(The Chicago Tribune Daily )の第4面にメンケンが中国から送ってきた『目撃者が描写した中国軍隊が敗北する時の南京の恐怖な光景』という見出しのニュース報道が掲載された。
1937年12月17日『シカゴ・ディリー・トリビューン』が掲載したメンケンが南京大虐殺に対する報道
報道では、メンケンは「全ての中国人男性は軍隊で服役した痕跡が発見されたら、すぐに同じところに押されて処刑される」と書いた。
また、メンケンは自分の見た恐怖な南京を次のように述べた。「かつて古い中国の誇りとされる首都南京は今日爆撃、砲撃、激しい戦闘の中で命を落とした軍人と民間人の屍体がところどころに散乱している」
日本軍に集団虐殺された中国軍民の屍体が山のように積もっている
(出処:『南京大虐殺史実展』より)
外国籍人士の人道主義救援と中国軍人の何者も恐れない壮挙を報道
南京大虐殺の極めて暗黒な時期に、南京安全区の人道主義救援と中国守備軍が勇敢に敵に抵抗し周りの戦地記者を守るという何も恐れない壮挙は、メンケンに感銘を受け、感心させた。
その報道ではこう書いてある。「三人の宣教師以外には負傷者の世話をする人がいない。この三人の宣教師はカリフォルニアから来たエヴァ・ハインズ女史、ロバート・ウイルソン医師、ニュージャージー州からのクリフォード・トリマー医師だ。」
南京失陥後、まだ小さくて物心がついていない多くの子供たちが孤児になった。米国看護婦のエヴァ・ハインズが南京に留まり、鼓楼病院で難民救助をしたり、新しく生まれた赤ちゃんの世話をしたりした。
当時67歳のエヴァ・ハインズ看護師が鼓楼病院で孤児の世話をしている
(出処:《南京難民区百日》より)
廃墟と硝煙の中で南京に留まった外科医のウイルソン医師とトリマー医師は互いに協力し、昼夜問わず全力を尽くして難民に手当をした。
ウイルソン医師が病人を検査中(米国牧師のジョン・G・マギー撮影)
メンケンは「二等兵の犠牲を発見」という報道の中で中国軍人が西洋記者を援護したことに対して感謝するという感動的な詳細を描写した。
「私にとって、南京城失陥後、賛美されていない英雄は一人の無名な中国二等兵だ。彼の行動は私とテキサス州から来た『ニューヨーク・タイムズ』記者のティールマン・デディンの命を救ったかもしれない。一群の兵士たちと最後の抵抗戦闘をしていたこの二等兵は中央飯店付近の中山路を歩いた私たちに道端に行くようにと合図してくれた。私たちは腰を曲げるようにして安全地帯に潜り込んだ後、日本軍の戦車が街をゴロゴロ走ってきて、その機関銃が火舌を噴出していた。それが遠のいてから、二等兵とその戦友たちがそこで犠牲してしまったことを発見した。」
——《二等兵の犠牲を発見》
南京を離れた後、メンケンは引き続き中国の抗日戦争と太平戦争に対する報道に投入した。米国パラマウント・ニュース映画会社の記者として、彼の南京大虐殺に対する報道は当時重要な影響力を発揮し、南京大虐殺の真相を早期に伝播する主要力の一つである。
メンケンの南京大虐殺に対する報道と批判は私たちに南京第一線からのニュースを残して、世界に南京大虐殺の真相を暴露し、極めて高いニュース価値と史料価値があり、今まで侵華日本軍の南京大虐殺の重要な罪証である。